Kawaraya &  Miyazaki
Nomiti
Miyasan
Rinachan
Xian
Shenyan 
 




===============  目   次 ============================ 

まえがき 

第1章 北京に向う

第2章 西安に向う

第3章 西安賓館(ホテル)

第4章 西安での仕事

第5章 SEの徳本さん

第6章 接待

第7章 帰国

 あとがき

=========================================================


まえがき 


1983年初夏、6月23日、「行ってくるね。」と家族の見送りを受け、みつわ台

個人タクシーで成田空港に向かった。千葉北ICから東関東自動車道を40数キ

ロ走り約30分で空港に着いた。

成田空港の免税店の販売管理システムの設置から保守までを受け持っていたが

こんどは、利用する立場に替わった。約1ヶ月間の出張予定で中国西安市の変圧

器製造工場にS/1の据え付けと保守技術者の教育とサティスフィケーションを貰

う事が目標である。 

どんなお客様の使用目的であるのか、情報が少なく予想がつかない出発である。

JALカウンターで手荷物をチェックイン後、SEの徳本さんと約束の場所で会い出国

手続きを済ませ、免税店でハイライトを2カートン買い、ゲート待合室に入った。搭乗

すると北京空港に運航してるのは日本航空一社で便数が少ないので満席であった。

片道10万円と高価な航空運賃でした。




第1章 北京に向う

成田を定刻午前10時に離陸し長崎空港へのルートから、五島、上海へ。上海

上空から北上し北京に向う。中国領土を上空からみると、蛇行して流れる揚子江、

広い区画の農地と所々に集落が左側の窓から見えた。

北京行きは2度目であるが、広大な陸地を見ると中国へ来たんだと実感する。気

持ちが切り替わるのを感じた。 快調な飛行が続いた後、高度を下げて北京空港

への着陸態勢になると風景が鮮明になり、煉瓦作りの白壁の農家、畑、ポプラの木

がぐんぐん大きく見えてきて、兵士に護衛されている滑走路に無事に着陸した。


4時間45分のフライトで、時差が1時間であるので午後1時45分に到着した。

広告が全く見当たらない簡素であるが風格ある北京空港の税関を通り荷物
を受け

取り、機会工業部の迎えの人の車(ソビエト製ボルガ)に乗り、柳並木の道を天安門

の近くにある北京飯店へ向けて走った。

北京飯店の東桜16階(1601-1604)のIBM事務所に荷物を預けて、1階の

銀行で円と元の両替したあと、北京飯店から離れた招待所に案内され1泊した。

招待所の広い敷地に点在する建物の一つで、兵士が要所に護衛している政府の

立派な花壇の中に建物はあった。

近くの建物にスイス銀行があるとも聞いた。 地面にローソクを灯して食事ができる

食堂棟もあった。大きな池(釣魚台)には、鯉か鮒かそれとも知らない魚が増えて餌

不足らしく痩せて泳いでいた。

翌朝、迎えの車で北京飯店の西桜にある招待所の関連事務所で宿泊代として二

人分の45元を支払った。


第2章 西安に向う

予定通り北京空港から国内線(イリューシン)に乗り西安空港に向かった。

西安の機内乗務員が機内サービスをしてくれた。民族サービスを考えての人員配置ら

しい。外国人の航空運賃と中国人の航空運賃は別料金で兌換券を使用する外国人

が優先搭乗で、定員オーバの時は、中国人が乗れなくなるそうだ。約2時間のフライト

で西安空港に着きタラップを降りて到着ゲートまで200メートルくらい歩いた。ついに

唐の都に来たんだと感無量で周囲を何度も何度も見回した。

手荷物を受け取り出口に向かうと、出口には西安変圧器工場の接待係りの2人(若い

女性と年配の男性)、毛室長(女性)、SUIさん(東北大に留学)とプログラム担当の男

が日本製のマイクロバスで迎えに来て西安ホテルの部屋まで案内してくれた。

私の部屋でS/1の到着日を毛室長に確認すると、梱包が大きく国内便に積めず

陸送で北京空港から北京駅までトラック輸送、北京駅から西安駅まで汽車輸送、

西安駅から西安変圧器工場までトラック輸送の手配をしたが到着日は未定と聞き、

スケジュールが心配になった。「夕方歓迎会に案内します」と言って帰られた。

自由時間になったので受付けに日本への電話を申し込んだところ、驚いた事に即

時通話が出来るとのこと、電話料金は安く便利である。

SUIさんに聞いたところ、観光客用に日本のNTTから輸入したXB交換機を設置して

海外即時通話に対処したそうだ。 北京では、申し込み方式で待たされたので即

接続は、本当に有り難かった。

夕方4時、迎えの車がきて、ある飯店で工場長他30名の盛大な歓迎をうけた。

話し振りや出席者との会話を聞いていると工場長は温和で包容力のある人に思

えた。通訳は、東北大学に留学したSUIさん(計算機室所属)で、とても日本語

が流暢である。日本の短波放送を聞いるそうで日本通である。 

 

第3章 西安賓館(ホテル)

1983年6月25日から7月21日まで宿泊。 
本館は、16階建の新しいホテルである。

13階の北側の部屋で、見晴らしが良く、右下に見える別館は2階建で屋上には、植

物が隙間なく植えてある。別館の左側には真っ白い粉が3メートル位の高さの山をつ

くつている。工場らしくみえるが、何の工場かは、判らない。

遠くの方をみると、クレーンが見え建設中の建物が多い。ホテル前広場の駐車場には、

ソ連製乗用車ボルガが2台と観光バス日本製日野が10台とトヨタのマイクロバスが3台

が駐車していた。1階には食堂、売店、両替所、受付があり、13階エレベータ昇降口

前には、服務台(各階にある客室受付)があつた。

一階の食堂の決まったテーブルで朝食、昼食、夕食を食べた。売店では観光客目当て

のお土産や絹の生地や高価な骨董品を販売しているので、毎日、退屈しないように徳本

さんとウインドウショッピングした。両替所は、毎日、円と元の交換レートが表示されるの

で損徳を徳本さんと話会いながら両替した。日本から持ち込んだインスタントスープやの

りや梅干は、とても美味しかった。 こちらの労働時間にあわせて、朝9時30分に迎えの

車が来て、昼食はホテルに戻り、2時にまた迎えの車が来て、5時にホテルに戻った。 

実働5時間である。仕事場への行き帰りに鐘楼の近くを通るとき、大勢の人達が堀の大改

修工事をしている人海戦術の現場を見て感動した。




第4章 西安での仕事

私の仕事はS/1インストール及びメンテナンスの教育、徳本さんの仕事はS/1の

システムプログラムの導入と通信アプリケーションのプログラミング教育である。

受講者は計算機室長の毛(マオ)さん、通訳のSUIさん、プログラマ兼エンジニアが6人

と時々工場長が参加される。

6月26日朝、9時30分に迎えの車がきて9時45分に工場についた。工場入り口のす

ぐ左側に計算機室が用意されていて内部を下見た後、会議室に移りスケジュールの打

ち合わせを行った。 その後、電源の準備、計器、測定器などの点検をした。使用する

マニュアルは、全て英語版である。会議で決めた事は、1.出来る事と不備なことの相

互確認、2.疑問点をなくす、3.最終引渡しテストは96時間の連続テスト後とすること

であった。

出来る事は、各種マニュアル配布、電源装置の用意、配線、アースの工事、端末の設

置の準備、床の切り込み、作業台の準備、ハードの教育、ソフトの教育が有り、ソフトと

ハードに分けて午後から開始した。開始後4日目の朝、毛室長から、「グッドニュース、

明日、マシンが到着します。中国軍の輸送機で運びますから」と聞き、明日、受け入れ

られるように、マシンルームを整備した。

次の日、厳重に梱包されたS/1は西安変圧器工場に無事についた。外で開梱し、

設置位置に固定し配線の接続を全て完了後、電源オンのテストを無事に終えた。

朝2回目の打ち合わせを行う。 搬送に尽力された方々と昨日の作業が無事に完

了したことのお礼をのべた後、インストレーション マニュアルの説明とスケジュール

の説明を実施した。静電気による基板の損傷や過密実装に興味があるようだ。明日

変圧器工場からハードウェア エンジニア2名とソフト ウェア エンジニア1名

が追加で参加することに決った。

3回目の打ち合わせでソフトの教育を優先してシステムプログラムの導入を開始した。

空き時間にはメンテナンスのトレーニングを行った。

4回目の打ち合わせで96時間の連続テストの話し合いを行った。根拠はドイツの装置

を購入した時に96時間連続テストの後、サティスフィケーションに署名したとの事であっ

た。日本の技術部に相談すると、システムテストの実績がないこととこれからの中国で

の状況を考えると、回避せよとの指示を得たので、次の日、再度テスト方法を話し合つ

たが、なかなか了解してくれなかったが、瀋陽のエンジニアの一人が黒板に「中日友

好 連続TEST 不用」と書いてくれた。その代わりに予備の部品を用意することで同

意して貰えた。 この件を日本の技術部に報告し一部の予備部品を日本から運ぶ許

可が降りた。 この任務を同じ技術部の金親さんが引き受けて4日後にくることに決ま

り迅速に行動された。  

金親さんが西安空港に到着する日、毛室長、接待係り、徳本さん、私で西安空港に

迎えに行った。 飛行機のタラップから降りて多くの乗客と一緒に歩いてきた。 

大声で名前をなんども呼ぶと 気がついた金親さんがにこにこしながら、近づいてき

た。 援軍来るで私達は元気がでた。 宿泊は、私のツインの部屋に決めた。 

ボード基板を手荷物検査で通してきたのは、流石だと思った。また異郷で、飲みなが

らの雑談は楽しかった。このお陰で、速やかにHW,SFのサティスフィケーションを貰

えた。大事に書類をカバンに仕舞い、7月21日に西安空港を後にした。書類を北京事

務所に提出した。これで銀行決済が出来る。今も鮮やかに記憶に残つている中国での

仕事である。 


第5章 SEの徳本さん

営業とSEの両方の肩書きを持つ徳本さんは、小型コンピュータとS/1システムの営

業として活躍されました。 私の中国の最初の仕事は、瀋陽でのS/1のトラブル解決

の仕事でした。 この仕事は別にまとめますので、ここでは、書きません。 

西安の仕事が決まってから準備の打ち合わせで本社で数回あいました。 四国の徳島

の教育者の長男で、物事を明るく考え、決断力がすばらしい人です。 今回、1ヶ月間

一緒に仕事をして、仕事に打ち込まれカストマーから信頼される姿を見て真のIBMer

だと思いました。

ホテルでのトラブルとしては、一寸来て欲しいと電話があり、部屋に行って見ると、トイ

レの便器が詰り今にも溢れそうである。 服務台に行き係りの人を呼んで事なきを得た

ことや寝る前に、一杯飲もうと思い徳本さんの部屋に行くと、マニュアルを広げて勉強中

であつた。灰皿には吸殻が山になっている。即時通話が出来ない北京のホテルの同僚

に電話しているがつながらないとのこと、私が確認しましょうと電話番号を聞いたら今宿

泊している西安賓館の電話番号で申し込まれていた。二人で毎日、朝昼晩食事して

いると、一人の日本人らしい旅行者が隣のテーブルに食事にこられた。声を掛けて話

すと、予想通り日本の方であった。お互いに自己紹介して旅行の目的をたずねると、

製鉄所を退職された技術者で中国政府の製鉄関連より中国国内のフリー旅行切符

が送られてきたそうである。旅行した都市で一週間に3日の講演会を開くのが条件と

のことであった。持って行った梅干をすすめたら、来たばかりで里心が付くからと丁重

に断られた。 


第6章 接待

中国では、外国人を退屈させないで仕事が出来るように、接待係りが、日曜日ごとに観

光案内してくれるのが礼儀だそうである。

最初、夜の唐時代の舞踏会と歌謡ショウに案内して貰った。一番前の席の真ん中の入

場券を回収し私達の席にしてくれた。歌謡ショウの男性歌手は、全て同じ色の背広を着

て歌った。徳本さんが私の耳元で背広を廻し着していると囁いた。なるほど、背広の有

効利用だなと思っていたらフィナーレで全歌手が、同じ色の背広を着て登場したので、

廻し着でなく平等ですねと二人で笑った。 唐時代の舞踏会は、ダンサーの衣装と髪型

を見たとき、竜宮城の乙姫様を思い浮かべた。特に手や指の動きがとても優雅であっ

た。 帰りに、入場券を回収された人に申し訳ないことをしたと接待係りの人に謝った。



次は秦始皇兵馬傭博物館と秦始皇陵と清華公園に案内してくれた。秦始皇兵馬傭博

物館では、発掘している状況を直近で見られて感動した。表にでると次々と観光バスが

到着していた。日本の元気なおばあさん(70才位)に会ったので「日中友好の証として私

と一緒に来ている中国人と握手しませんか」と薦めたら「いいですか」と言いながら一人

ずつ握手して涙して喜ばれたこと。また手洗いに行かれたおじいさんが、自分のバスが

見つからなくて困っているのを聞いて皆で探し出して乗せたこと、狭い場所でのお土産

の立ち売りなどを思い出します。秦始皇陵には石榴の木が植えてあり、SUIさんの説明

では、石榴は種が多いところから子孫繁栄を願うとのこと。

清華公園では、日本軍は、賊軍として説明されていた。蒋介石が隠れていた岩山もあ

り、楊貴妃が皇帝と暮らしたところでもある。楊貴妃が入浴した花模様の大理石風呂に

規制がなかったので靴で入ったことを後悔している。 夏なのに全く蝉のこえが聞こえな

いのが不思議に思えた。



金親さんが来てから、再度、秦始皇兵馬傭博物館と清華公園に観光に案内してもらっ

た。生憎の雨であったが、博物館でゆっくり、等身大の武士傭や馬がガラスケースに入

れて陳列されているのを鑑賞出来た。

次は、乾陵と大雁塔に案内してくれた。 乾陵に行く途中に小高い陵をあちこちに見た。

車を降りて陵まで歩く途中に高さ3メートル位の石像が数体並んで立つているが首か

ら上が取られイギリスの博物館へ持ち去られたとのことであつた。乾陵の頂上には、高

さ5メートル位の鉄製の展望台まである。 乾陵の周囲は、畑であるが、畑の向こうにも

陵が見えた。陵の盗掘が行われ、多くの埋葬品が持ち出されたそうである。帰りに7階

建ての大雁塔に案内してくれた。唐時代に作られたそうである。1階の外側には漢字が

彫られていて拓本を取っていた。 大雁塔に登って見ると、1階から7階まで、階段があ

る。各階の東西南北に一つの穴がある。穴からの見晴らしが良い。 塔の前の左右に

獅子の像があった。日本の神社で見かける狛犬の大きさであった。 次は、工芸廠に案

内してくれた。お土産を買うのにいい所であった。陳列ケースを見ているうちに大雁塔の

前の左右の獅子の像と同じ小さな(孔雀石)像があるのに気がついた。金額の表示が

ないので、係りに人に聞くと、売り物ではありませんとのこと。接待係りの人に何とかな

りませんかと頼んだところ、数日後、値がついたので、買い求めた。 この孔雀石像が

、何時ごろ、どこから西安に来て、だれが製作したのだろう。 全く不明であるから、想

像を家族で語ることが、夢がふくらみ楽しみでもある。


最後の接待は、私達より感謝の宴会として40人位招待したい。不慣れのために接待

係りの方に、場所、料理、費用を、お任せでお願いしたいと頼んだ。心よく引き受けても

らい恥ずかしくない宴会を行うことが出来た。次々に出てくる料理を楽しく食べることが

出来た。費用も一時肩代わり即ち外国人価格でなく中国人価格で済んだ。ちなみに、3

万円でした。

 

第7章 帰国

仕事の目的を達成して、帰国できるのは、何事にもまして、うれしい。 これから、ユー

ザのアプリケーション作成が始まる。7月21日接待係りと計算機室の方々がホテルに

迎えに来て、空港まで送ってくれた。

北京に着き、22日の帰国切符が取れた。 北京飯店に一泊し、朝食、買い物を済ま

せ、北京空港に向かった。 待合室で徳本さんと煙草を吸いながら搭乗時間を待った。

機内食には、和食が出た。 蕎麦がとても美味しかった。 成田空港で所沢に帰る徳本

さんと別れ、一人になると、ゆっくリズムからせわしいリズムに変わって行くのが感じら

れた。明日からまた仕事再開である。だんだん、我家が近くなる。 家族の顔が車窓に

浮かんだ。


 あとがき

2年後(1985年)、中国五大都市のS/1ショーケース・プロジェクトに参加できるとは、

夢にも思いませんでした。 また、西安での仕事に気持よく送り出し支援してくれた技術部

の方々に感謝します。







&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&