

=============== 目 次 ========================
まえがき
第1章 出張命令
第2章 北京に向う
第3章 北京での仕事
第4章 万里の長城と明の十三陵と石像
第5章 瀋陽へ向かう
第6章 招待所
第7章 瀋陽での仕事
第8章 接待
第9章 帰国
あとがき
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まえがき
中国の瀋陽大学に納入S/1のトラブル解決のために出張修理することになった。
共産主義国家での仕事で不安であったが、据え付けに行かれた同じ技術部のエンジ
ニアの話を聞いて状況把握出来たので準備し出発した。 途中、北京のお客様で1週間
データ入力装置3742のインストールと教育、それに3203プリンターの難解トラブル修
理を終え瀋陽大学に行くと、今回のアナログ・トラブルの修理の機会にアナログの調整
技術を学びたいとの要望があり、それにも応じた。 ココムの規制、容易でない中国国内
移動、遅れている通信手段、中国語の不勉強・・・・
いろんなことを仕事を通じて体験出来て本当によかった。
第1章 出張命令
1983年、千葉県内と京葉工業地帯で1800システム、システム7、S/1システム、
システム34、システム36、システム38の保守サービスに従事していた私に、3月20
日、野口課長より六本木の本社に行って英会話のインタビューを受けて欲しいと言わ
れ、インタビューテストを受けた結果、パス出来たので、電話で結果を課長に報告した。
次の日、課長から、中国の瀋陽大学に設置したS/1システムのアナログの調整がう
まくいかずサティスフィケーションが貰えず困っているので、現地に行ってくれないかと
いう話があった。
帰宅後、家内に中国(瀋陽)出張の話をした。 1ヶ月位ならOKと承諾を得たので、次
の日、千葉のサテライト オフィス(塚本ビル)で課長に「瀋陽出張に行きます。」と返事し
た。 課長は、すぐに、八重洲オフィス(東京駅近く)の中村所長のところへ行って、出
張手続きを始めるようにと指示を受けた。所長秘書から出張書類一式を貰い記入後提
出した。パスポートは、持っていたので航空券とT/C(トラベラーズチェック)を貰った。
所長より中国で仕事をする上での心得を聞いて千葉に戻った。課内で正式に出張が発
表されたので、通常業務を離れて準備に取り掛かった。必要なマニュアルの用意と中
国語のにわか勉強をした。
準備中に北京事務所より3742データ入力装置10台のインストールとメンテナンス教
育を北京のAOS(アカデミック オブ サイエンス)で7日間でやって欲しいと追加業務
のテレックスが来た。了解の返信をした。 家内は、近所の高橋さんの奥さん(剣道の
松和先生の娘さん)に中国出張の話をして手土産の相談したところ父の所に結婚式
で貰った引き出物の風呂敷がたくさんあるので、その中から選んで持っていったらどう
かとの話を聞いてきた。風呂敷は、使い道があり、荷物にはならないしということで、柄
を選んで50枚貰うことにした。2日後、勝浦の松和先生から風呂敷が届いた。日中
友好にぜひ使って欲しいと言われた。 先生が帰られたあと、箱を開けてみると、50枚
の風呂敷は、同じものは1枚もなく、おめでたい柄ものばかりで、これなら、きっと喜ん
でもらえると確信した。
第2章 北京に向う
1983年3月30日、個人タクシーが迎えに来た。近所の高橋さんと家族の見送りを
うけて成田に向かう。パスポートと航空券とTCを車中で再確認しながら南ウイングに着
いた。チェックインカウンタの前で桧山さんを待った。桧山さんは、2度目の瀋陽出張で
瀋陽変圧器工場の端末装置の設置指導に行くそうである。荷物を重量制限以内で預け
たあと、出国ゲートでパスポートに出国印を押して貰った。混雑している免税店でハイラ
イト(たばこ)を2ケース買った。この免税店のシステムは、2重化したS/1システムで
千葉技術で保守サービスを受け持っていた。搭乗待合室の公衆電話から「もうすぐ搭乗
する。家のことは頼む。」と家内に電話した。家内と子供達のこと、これからの中国での
仕事のこと、不安なことばかりである。 桧山さんは、2度目であるので中国への入国の
話、北京オフィスの状態、瀋陽の様子などを聞いて自分なりのイメージをつくることが出
来た。
JALXXX便に搭乗が始まり機内では後部座席に並んで座れた。便数が少ないので満
席である。ドル箱路線であることを確認できた。機内食が運ばれ、缶ビールやワインの
サービスもあったが、コーヒを飲んだ。天候にも恵まれ快適に北京空港に到着した。入
国手続きを終えて荷物を受け取り、円を元(兌換券)に交換し、迎えの車で北京飯店に
あるオフィスに向かった。広告の看板のない地味な空港から市街地までの蒲鉾型道路の
両側は、大きな柳並木である。春の到来近く少しみどりがかってきている。北京飯店の
玄関口に乗り着けた。 ホテルマンがドアを開けてくれた。 荷物は車に残して16階の
(1601-1604)事務所に行き、到着の挨拶をした。 この事務所宛てにテレックスを打
っていたので、友誼賓館に泊まれる手配がなされていた。 北京事務所で採用された社
員(アメリカ人)が車に便乗し天安門前広場通りを西に向かって暫く走った古い建物の友
誼賓館に案内してくれ、宿泊の手続きをしてくれた後、事務所に戻られた。
私の部屋番号は、1302であった。17時ころ北京で仕事されている内藤さんと半田さん
が部屋まで迎えに来てくれて4人で北京飯店の中楼へ行き食事をした。桧山さんは、明
日、単身北京空港から瀋陽へいくので、私の部屋でお別れ会をした。
第3章 北京での仕事
朝食を友誼飯店の食堂で食べた後、内藤、半田さんと一緒に契約した車でAOS(科学
技術院)に向かった。AOSはそんなに遠くはなかった。車がないと入退出来ない場所で
あった。煉瓦造りの門を通り、大きな5階建ての建物の入口で降り、にこにこして迎えて
くれた守衛さんに挨拶し、2階の会議室(控え室として使えた)に階段を登って行くと、
Welcome to China とコンピュータ室から部門の責任者(黄さん)とデータ入力部
のMs.毛さんが迎えてくれた。 英語で自己紹介とデータ入力装置3742のテスト方
法の打ち合わせをした。 ホストはS/360(ココム規制で新鋭機は輸出出来なかっ
た)であった。AOSのプログラム担当者とHWエンジニアは、カナダのIBMの教育セン
ターで教育を受けてきたので知識は十分である。内藤、半田さんは磁気テープ装
置のモデルチェンジ(IBM用語ではMES)の作業をしていた。 Ms.毛さん(データ入
力の責任者、小柄な女性)に3742データ入力装置のマップによるメンテナンスの仕方
を数人のエンジニアに教えて欲しい要望があり、その様に計画したが、実働時間が昼
食を友誼賓館まで食べに行く時間と4時30分で終えるためと雑談の時間があるために
少なく、いかに早く教えるかの難題が起きたのと、12台のテストをマップを使用してして
完了したいと要求が急に出されたので、12台全てを同時テストする方法を提案し受け
入れてもらえた。 トラブルがなく予定より早く終えることが出来た。内藤、半田さんは、
磁気テープ装置のモデルチェンジの作業をしていた。 システムの3203プリンター2台
の内の1台のトラブルがAOSエンジニアでは、解決できないとの事で、内藤さんが
ボード交換などしたが直らず不信感が漂い始めた。最後の日に手伝いとしてショック
テストを提案し電源部のヒューズホルダのひび割れを発見しこれを交換して解決した。
Ms.毛さんから贈り物を戴き、AOSの方々に別れを告げ、友誼賓館で夕食をとり、午
後5時の瀋陽行きに乗るため北京空港に送ってもらった。瀋陽行きの搭乗案内
が遅延のため表示されず不安であったが、内藤さんをこれ以上待たせることが出
来ないので、帰ってもらった。 19時のフライトが遅れて23時になった。そういえば、こ
の日は西風が強く、白い土埃が舞い上がり北京市内の自転車に乗っている女性の多く
は、埃よけの薄い布を頭にかぶって走行していた。
第4章 万里の長城と明の十三陵と石像
北京へ来た記念に、1983年4月3日(日曜日)に内藤、半田さんの案内で万里の長城
と明の十三陵と石像見物に行った。
外に出ると、身震いするほど寒い朝だった。タクシーは古いボルガで運転席の隙間から
風が入り寒い。馬車が通る農道をクラクションをならしながら走った。道路は蒲鉾型なの
で真ん中を通っている荷馬車は急には道を譲れない。右前方に煙をはいて汽車が走っ
ているのが見えた。初めて見る光景に感動した。 少し起伏ある山が見えて来た山は
地肌がまる見え、木が育っていない。長城に続く壁の一部が見えてきた。ほどなく長城
(観光地)に着いた。タクシーは駐車場で待って貰った。入場券を買い右側の長城を歩
いた。不規則な階段が多くて歩くのが容易ではない。 長城から北の方を見るとなだら
かな枯れ野原や山が見え、東の方を見ると何処までも延々と続く長城に感動した。修
復された長城の先端まで行き引き返した。左側は階段が急なところがあるそうで、登ら
なかった。 待ってくれたタクシーで明の十三陵へ行った。
十三陵の食堂で運転手も一緒に食事をすることにした。運転手にどの料理がおいしい
かと聞いたら、どれもおいしいというので、炒め物と飲み物と持参したサンドイッチを食
べた。 この陵は、最近地下入り口が発見され、陵の内部に入れるようになった。高さ4
m位有る大理石の開き戸を入ると内部は広く天井は高く部屋があり、その一つに複数
の人が葬られていた。地上にはお寺がある。見渡すと、お寺が散在して見える。緑の山
と赤色のお寺が調和して見える。
ここを後にして、石像を見に行った。平地に一対の石像(人、動物)が間隔を置いて並ん
でいる。よくこんな大きな石像を作ったと思っていたら、別の場所で作り、冬地面に水を
まき、厚い氷を張らせてその上を滑らせて運んだそうである。
第5章 瀋陽へ向かう
内藤さんと別れたあと、一人になると心細いものである。
pm7:00が出発時間であるが、案内板にフライト時間が表示されない。なんの情報も
アナウンスされない。pm9:00 飛行機の時間が遅れる案内があつた。大連からの北
京経由瀋陽行きのアントノフ機が到着しない。周りは中国人ばかり中国語が全く聞けず
喋れず途方にくれていると、日本語で「どちらへいきますか」と中年の婦人が話しかけて
くれた。とっさに、「瀋陽に行きますので宜しくお願いします」と答えた。「日本語が上手
ですね」と聞くと、「大阪の松下電器の洗濯機工場で技術指導をうけ終わったので瀋陽
の家に帰るところ」だそうである。23時、「搭乗手続きが始まります」とおしえてもらい手
荷物検査を受け搭乗した。お礼をのべて搭乗した。4時間遅れの出発になったので瀋
陽飛行場に出迎えはあるだろうかと心配した。瀋陽飛行場についた。 機外にでると小
雪で風が冷たい。身の引き締まる思い出で出口に歩いた。通訳の李さんとCSの石田
さんが出迎えに来てくれた。待つのも大変だったと思う。
李さんにお世話になった婦人の事をはなして、もし方向が同じであれば、迎えの車で送
ってやってくれませんかと頼んだ。李さんは、婦人に話して見ますと快く引き受けてくれ
て、家の近くまで送ることが出来た。朝の3時過ぎに護衛されている瀋陽招待所に着
き、部屋に荷物を運び込んで落ち着いた。朝食で、先着の桧山さんに再会出来嬉しかっ
た。今日から未知の土地で仕事する不安で一杯であったが、なんとしても、トラブルを解
決するぞと心に誓った。
第6章 招待所
瀋陽の招待所は、護衛(軍人)が入門を見張っていることや隊列をくんで行進している
のを見て、ここは要人も宿泊すると思った。夜間になると、銃剣をつけて警護していた。
本館は2階建ての古い建物で、玄関を中心に左右対称の建物である。玄関を入ると左
側に受付があり、その奥は広い食堂があり、丸いテーブルが整然と並んでいる。 白い
テーブルかけの上に、梅干の入れ物、お茶漬けがおかれているテーブルがあった。 こ
のテーブルは、私達専用で、朝食と夕食を食べた。
気になったのは、一番奥の左側の窓の近くのテーブルで、毎朝、同じ時刻に風格のあ
る老夫婦が楽しそうに食事していることであった。従業員の対応の仕方も丁寧である。
それなりの身分のある方と思った。女性の従業員は、オレンジ色のワンピースの制服を
着て若くてきれいな人が多い。。通訳の李さんが、ここの女性はウオッチングパイですと
教えてくれた。夕食後、娯楽室では、従業員と一緒に卓球やビリヤードをすることが出
来た。簡単な反省会と次の日の仕事の段取りを終えた後、3人で持ち込んだお酒や瀋
陽ビールを飲んで、海援隊の歌をきいてすごした。部屋から日本に電話を申し込むと、2
時間位待たされた。終わると、すぐに電話代の請求が来た。 広い敷地内には、古い洋
風2階建てが木立の中に点在している。東側に小池があった。桧山さんは、前回来た
時、この池に魚がいると信じて、今回は、釣竿を持参して来たが、全然釣れなかった。
池の周りの背の低い竹のなかに干からびた手のひら位の魚が落ちていたから、実在し
ていたらしい。餌が悪いのか、寒いので底にいるのかも。
庭に桜の花によくにた花がさいている。今年は、みつわ台の桜並木のさくらまつりは、
残念だけど見られない。
第7章 瀋陽での仕事
朝9時、招待所に李さんが車(ボルガ)で迎えに来た。この車で石田、桧山、私の3人で
瀋陽変圧器製造工場に行き、関係者に挨拶する。挨拶後、私は、通訳の陳さんと、エン
ジニアの孫さん、黄さんの4人で瀋陽大学へ向かった。途中、車窓から、私服の若
者達が銃を肩に掛け、自転車で走っている。大学の構内は、静かで、広い。システムが
設置された部屋に着いた。 陳さんが計算機室の責任者(先生)に私を紹介してくれ、
アナログ精度の現状を話してくれた。時計を見ると11時である。 昼食は、瀋陽変圧器
に戻るので、30分しか仕事が出来ない。電源を入れて、起動の確認で終りとした。状
況把握出来て、車中で雑談ができる雰囲気になった。 食堂は、厨房(台所)の近くの質
素な小部屋(四畳半位)であった。干小えびが入った麺が美味しかった。食後、和気
藹々のバレーボール試合をしばらく見て待機室に戻り、くつろいだ。すでに、工場では
System/360が稼動している。 中国で最初のユーザーである。
端末の増設が石田、桧山さんの支援の下に進んでいる。1時過ぎに、再び、通訳の
陳さんと、エンジニアの孫さん、黄さんの4人車で瀋陽大学へ向かった。 管理者に
挨拶のあと、アナログ調整を行い基板上の可変抵抗が壊れているのが判った。北京の
ストックセンターからの取り寄せとなる。在庫確認の結果、北京にあることが判明したの
で石田さんに飛行機で行って貰った。北京から帰りの航空券が入手できないとテレッ
クスが瀋陽変圧器工場に入ったと通訳の李さんが教えてくれた。夜、石田さんから招
待所に明日汽車で帰ると電話があった。 翌朝、通訳の李さんに石田さんが乗った汽車
の時間を話したら、瀋陽駅に迎えに行けるように工場の車を手配してくれた。
3時に李さん、桧山さんと私の3人で駅に行き、外国人の改札口で待ったけど、石田さ
んには、会えなかった。工場へ行き、テレックスで石田さんが帰って来ないので石田さ
んが乗った汽車の時間を北京事務所に確認したが、時間に間違いなく、心配になった。
私と桧山さんは、招待所で待ち、李さんは工場で待つことにした。1時間位して、李さん
と石田さんが工場の車で招待所に笑顔で帰ってきた。
石田さんによると、迎えに行った汽車に乗ってたそうだ。 外国人用の改札口ではなく
一般の改札口を出て、タクシーを探したがなくて、三輪自転車に乗り招待
所に来たけれど入れてもらえず駅に引き返してタクシーを捜したがなくて三輪オートバイ
に乗り瀋陽変圧器工場に行き李さんと会ったそうである。石田さんは瀋陽変圧器
工場に中国で初めてのSystem/360を納入時から支援しているので信頼も厚く瀋陽
マネージャと呼ばれていた。このビジネスを成功させるために営業、システムエンジニ
ア、技術サービスと多くの人が携わっていた。
次の日、取り寄せた部品でアナログ調整を終える事が出来た。先生と学生に、トラブル
の原因説明と不良可変抵抗の構造の説明をおこなった。
プログラマーによる使用が始まった。先生と学生の二人組でプログラムを作成してい
た。 次の目標としてSystem/360とS/1の通信が計画されていた。 市内回線と構内
回線を接続してモデム折り返しテスト(ローカル、リモート)が出来るところまで支援し
て、私の仕事は、終わった。メンテナンスのノウハウを話し合う時間がとれたことは、有
意義であったと思っています。
第8章 接待
夕食会(工場主催の歓迎会)と工芸廠見学(お土産買うチャンス)と千山(大学生とハイ
キング)の接待を受けた。石田さんの話では退屈しないように配慮しているそうである。
その返礼として弊社も誰かが瀋陽を離れる時、フェアウェル会を持つそうである。瀋陽
変圧器工場へは営業、SE、CSが移り変わり来ているので、日本語通訳の李さんは、
大忙しである。
私達の歓迎会は、総勢30人くらいで、ビール、マオタイ酒、ワインとめずらしい瀋陽料
理が用意された。ついつい二人ともマオタイ酒を飲みすぎ、地に足がつかない状態にな
り招待所の各自の部屋に戻り翌朝まで昏睡した。
帰国前、工芸所に案内してくれて、花瓶や掛け軸を買う事ができた。また春到来の風光
明媚な観光地の千山にも連れて行ってもらった。
第9章 帰国
帰国に際して、瀋陽変圧器工場長の名前入りで感謝状とサティスフィケーションをいた
だいた。そして、北京で機械工業部の夕食会に招待され、その席で感謝状に工業部の
名前が追記された。サティスフィケーションは、北京事務所に提出した。 翌日、2時の
飛行機に間に合うように空港へタクシーで行き、成田に向った。機内食の和食を堪能し
た。 成田で桧山さんと別れた後、タクシーで我家に向った。貴重な体験と友好が
出来たと自画自賛している。
あとがき
この仕事が縁で、2ヵ月後に西安の仕事に結びつき、瀋陽のエンジニア達と西安で再
会出来たのです。


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